2007年 02月 26日
唐招提寺金堂の解体修復現場と薬師寺を訪れる 天野俊歩 |
私のブログの内容をコピーして貼り付けする方法を浪崎さんから教わりましたので、遅まきながら発表します。
このたび奈良の唐招提寺金堂、薬師寺講堂、京都の大徳寺玉林院の修復、復元工事を見学して来ました。その唐招提寺金堂と薬師寺講堂、西塔内部の様子を駆け足で報告します。
18日、まず平成12年1月に始まった唐招提寺金堂の解体復元工事現場を訪れました。一昨年2月に訪れたときには大きな素屋根の下で建物全てが解体され、柱が立っていた礎石だけが並んでいました。そのときの様子はリビングボイスNO.88を見てください。
最初に事務所に寄って今回の復元工事の模型を見学しました。
宝亀年間(770~780)の建立時には屋根はもっと低くなだらかでしたが元禄の改修(1688~1704)で大きくなり軒の出も長くなりました。それに伴い補強材が設けられ、それが内陣にも露出して見苦しくしていました。明治の修復でさらに補強されたのですが、それでも屋根の重みで柱は内側に倒れ、柱頭の組み物は外側へ回転してしまいました。
今回は屋根の形はそのままで内陣を創建当時の姿にもどすことにしています。そのために内陣に露出した補強材を取り払い屋根裏に鉄骨の補強材を入れました。模型で白い部材が鉄骨を表しています。また、瓦も軒先部分には軽いものを使用します。
その後現場に向かいました。ヘルメットをつけて素屋根に入ると建物はすでに立ち上がっていました。
初めに新しく作られたシビを見学しました。許可されたので手でなでてきました。
今まで乗っていたシビは西側が天平時代のもの、東側が鎌倉時代のもので、一昨年に来たときには見ることができました。天平時代のものは脆弱化が進み銅線がなければ崩れて危険な状態であり、鎌倉時代のものもヒビが入って銅線で補強がなされていました。模様もふぞろいでおおらかな天平製ときっちりと作られた鎌倉製の違いがおもしろかったのを覚えています。
屋根の高さまで上がってみました。
四隅の棟を隅鬼(すみおに)が支えています。
唐招提寺の僧の数は今は7人、なりたい人は大歓迎だそうです。
次に薬師寺に向かいました。まず柱の下にあった礎石を見学。もともとは柱は平らな石に乗っていたのですが、ずれるのを防ぐために真ん中にダボ(突起)ができたのは天平時代です。ですから唐招提寺の礎石にもダボがあります。しかしこれはダボの上端までの厚みのある石を削るのですから道具が未発達の時代には大変な作業でした。そこで礎石に穴を開け、柱に設けたダボを差し込む方法が考案されました。ところが柱と石の隙間から入った雨水が穴にたまって柱を腐らせました。そこでまた石にダボを設けることになったとのことです。
如来が乗っている基壇の模型です。この模型を作ったときの苦労を責任者から聞きました。昔の人はおおらかで、一つ一つの模様の大きさも形も向きも違うので、きちんと作ることに慣れている現代の職人たちにとってはかえって大変な作業だったとのことです。
鐘楼の鐘が吊ってある部分を見てください。鐘が揺れるのとは直角方向から突くようになっていますがこれも平安時代まで。それ以後は90°向きを変え揺れる方向に突くようになったとのことです。
回廊の軒先を見ると丸瓦の間を流れてきた雨水が軒先の垂木に当たらないように垂木は丸瓦の真下にくるようになっています。
しかしこんなことをやっていられるかということで鎌倉時代以降は厚い板をせり出してその上に瓦を並べました。これで垂木間隔と丸瓦間隔とを合わせる必要はなくなりました。
丸瓦の間の瓦の先端を見てください。左は室町時代のもので丸瓦に隠れる部分まで模様がありますが右の桃山時代のものは見えない部分は省略され江戸時代には模様はさらに小さくなりました。そして明治にはまったくなくなりました。
敷石です。上の白いのが中門の敷石、下が東西の塔の軸線にあわせて敷いた石です。よく見ると真ん中の石の左右の辺の長さが違います。つまりこの部分の石は皆台形をしています。ということは中門と東西の塔の軸線、そして金堂は平行ではないということです。
天平時代に建てられた東塔です。
こちらは西岡棟梁によって昭和に復元された西塔です。
東塔では連子(れんじ)窓がなく白壁になっていますが、創建時の通りに復元された西塔の各層には緑色の格子が付いた連子窓あります。東塔は鎌倉時代の改修の際にどのような理由でか省略されてしまったようです。
西塔の内部です。真ん中に太い柱が見えますがこれは柱ではなく塔婆で、屋根を突き抜け水煙の下まで延びています。そしてこの下には仏舎利が納められています。
この塔婆は建物とは屋根を突き抜ける場所以外では接していません。ですから構造には寄与していません。周りの塔建築はこの塔婆を護るためのものです。ただここで問題がおこりました。年月が経つうちに建物がその重さで全体が沈み始めたのです。当然塔婆と屋根の間に隙間が生じ雨漏りの原因になりました。そこで江戸時代には建物が沈むことを考慮してあらかじめ塔婆を吊って下を浮かすようにしました。それが地震にも強い構造と解釈されたこともあります。この西塔では創建時の復元ということで浮かせてはいません。
天井画です。ハスの茎にはトゲがあることを初めて識りました。
このあと講堂の修復現場に向かいました。
帰る頃には晴れ間が広がり、西日が東塔を照らしていました。
このたび奈良の唐招提寺金堂、薬師寺講堂、京都の大徳寺玉林院の修復、復元工事を見学して来ました。その唐招提寺金堂と薬師寺講堂、西塔内部の様子を駆け足で報告します。
18日、まず平成12年1月に始まった唐招提寺金堂の解体復元工事現場を訪れました。一昨年2月に訪れたときには大きな素屋根の下で建物全てが解体され、柱が立っていた礎石だけが並んでいました。そのときの様子はリビングボイスNO.88を見てください。
最初に事務所に寄って今回の復元工事の模型を見学しました。
宝亀年間(770~780)の建立時には屋根はもっと低くなだらかでしたが元禄の改修(1688~1704)で大きくなり軒の出も長くなりました。それに伴い補強材が設けられ、それが内陣にも露出して見苦しくしていました。明治の修復でさらに補強されたのですが、それでも屋根の重みで柱は内側に倒れ、柱頭の組み物は外側へ回転してしまいました。
今回は屋根の形はそのままで内陣を創建当時の姿にもどすことにしています。そのために内陣に露出した補強材を取り払い屋根裏に鉄骨の補強材を入れました。模型で白い部材が鉄骨を表しています。また、瓦も軒先部分には軽いものを使用します。
その後現場に向かいました。ヘルメットをつけて素屋根に入ると建物はすでに立ち上がっていました。
初めに新しく作られたシビを見学しました。許可されたので手でなでてきました。
今まで乗っていたシビは西側が天平時代のもの、東側が鎌倉時代のもので、一昨年に来たときには見ることができました。天平時代のものは脆弱化が進み銅線がなければ崩れて危険な状態であり、鎌倉時代のものもヒビが入って銅線で補強がなされていました。模様もふぞろいでおおらかな天平製ときっちりと作られた鎌倉製の違いがおもしろかったのを覚えています。
屋根の高さまで上がってみました。
四隅の棟を隅鬼(すみおに)が支えています。
唐招提寺の僧の数は今は7人、なりたい人は大歓迎だそうです。
次に薬師寺に向かいました。まず柱の下にあった礎石を見学。もともとは柱は平らな石に乗っていたのですが、ずれるのを防ぐために真ん中にダボ(突起)ができたのは天平時代です。ですから唐招提寺の礎石にもダボがあります。しかしこれはダボの上端までの厚みのある石を削るのですから道具が未発達の時代には大変な作業でした。そこで礎石に穴を開け、柱に設けたダボを差し込む方法が考案されました。ところが柱と石の隙間から入った雨水が穴にたまって柱を腐らせました。そこでまた石にダボを設けることになったとのことです。
如来が乗っている基壇の模型です。この模型を作ったときの苦労を責任者から聞きました。昔の人はおおらかで、一つ一つの模様の大きさも形も向きも違うので、きちんと作ることに慣れている現代の職人たちにとってはかえって大変な作業だったとのことです。
鐘楼の鐘が吊ってある部分を見てください。鐘が揺れるのとは直角方向から突くようになっていますがこれも平安時代まで。それ以後は90°向きを変え揺れる方向に突くようになったとのことです。
回廊の軒先を見ると丸瓦の間を流れてきた雨水が軒先の垂木に当たらないように垂木は丸瓦の真下にくるようになっています。
しかしこんなことをやっていられるかということで鎌倉時代以降は厚い板をせり出してその上に瓦を並べました。これで垂木間隔と丸瓦間隔とを合わせる必要はなくなりました。
丸瓦の間の瓦の先端を見てください。左は室町時代のもので丸瓦に隠れる部分まで模様がありますが右の桃山時代のものは見えない部分は省略され江戸時代には模様はさらに小さくなりました。そして明治にはまったくなくなりました。
敷石です。上の白いのが中門の敷石、下が東西の塔の軸線にあわせて敷いた石です。よく見ると真ん中の石の左右の辺の長さが違います。つまりこの部分の石は皆台形をしています。ということは中門と東西の塔の軸線、そして金堂は平行ではないということです。
天平時代に建てられた東塔です。
こちらは西岡棟梁によって昭和に復元された西塔です。
東塔では連子(れんじ)窓がなく白壁になっていますが、創建時の通りに復元された西塔の各層には緑色の格子が付いた連子窓あります。東塔は鎌倉時代の改修の際にどのような理由でか省略されてしまったようです。
西塔の内部です。真ん中に太い柱が見えますがこれは柱ではなく塔婆で、屋根を突き抜け水煙の下まで延びています。そしてこの下には仏舎利が納められています。
この塔婆は建物とは屋根を突き抜ける場所以外では接していません。ですから構造には寄与していません。周りの塔建築はこの塔婆を護るためのものです。ただここで問題がおこりました。年月が経つうちに建物がその重さで全体が沈み始めたのです。当然塔婆と屋根の間に隙間が生じ雨漏りの原因になりました。そこで江戸時代には建物が沈むことを考慮してあらかじめ塔婆を吊って下を浮かすようにしました。それが地震にも強い構造と解釈されたこともあります。この西塔では創建時の復元ということで浮かせてはいません。
天井画です。ハスの茎にはトゲがあることを初めて識りました。
このあと講堂の修復現場に向かいました。
帰る頃には晴れ間が広がり、西日が東塔を照らしていました。
by wakakenn
| 2007-02-26 08:03
| 社寺仏閣