2008年 02月 20日
高岡山瑞龍寺(ずいりゅうじ) 天野俊歩 |
2月17日、18日と合掌造りの五箇山、高岡の瑞龍寺、若者に大工及び造園技術を学ばせる職藝学院(旧富山国際職藝学院)、街から電柱をなくすなどの整備をしている「おわら風の盆」で有名な八尾を訪れる旅行に参加した。
ところが初日に富山行きの航空便が降雪のため欠航となってしまい、急遽東京駅から新幹線で越後湯沢へ行き、北越急行(通称ほくほく線)経由の特急で富山へ向った。そのため富山へ着いたのはは予定より5時間遅れの午後2時40分だった。
そこで五箇山行きは翌日とし、瑞龍寺だけを訪れることになった。職藝学院の上野幸夫教授が案内をしてくれたが、上野氏は10年に及ぶ瑞龍寺修復及び復元工事に携わった方である。
まずは伽藍配置をご覧いただきたい。
(研修旅行の資料「万華鏡」から拝借したため一部に裏の文字が写っています)
手前から総門、山門、仏殿、法堂と一直線に並び、山門と仏殿との間の左右に禅堂と大庫裏がある。実は総門と山門の間の左右には七間浄頭(じんずう=便所)と浴室があったことがわかっているので近く復元されることになっている。山門から左右に延びた回廊の両端にそれらにつながる部分が切妻となって見えている。
仏殿の屋根だけが白っぽく見えるのは、この建物が瓦葺きではなく、瓦の形をした鉛で葺いてあるからだ。これは雪でずり落ちないように配慮されたとのことである。
三代藩主、前田利常が大工頭山上善右衛門嘉廣に造らせ1663年に完成したが、1746年の浴室からの出火で回廊でつながっていた山門、七間浄頭、禅堂、鐘楼が焼失した。山門以外はただちに再建され、山門も70年後の1820年に24代山上善右衛門吉順の手で再建された。
しかし明治の廃藩置県や廃仏毀釈で荒廃し、戦後の農地解放などで寺地も農地となって縮小されてしまった。それでも仏殿は明治42年に、総門と法堂は昭和3年に旧国宝に指定されていた。
昭和60年(1985年)に文化庁、県、市などによる7億円と5年の予定での解体修理工事が始まったが、工事が進むにつれて次々と大きな発見が続き、ついに創建時の姿が判明した。そこで全伽藍を復元することになり、23億円と10年の歳月をかけて上野教授のもとで平成7年(1995年)に今の形まで復元された。
私は平成15年(2003年)の9月に訪れて個々の建物の完成度の高さと配置のバランスの良さに驚かされた。正直に言えば奈良や京都の数多くの神社仏閣をも凌いでおり、世界的にも高い評価が与えられてもよい伽藍だと思っている。
また、この寺と長さ872mの八丁道でつながっている、やはり利常によって造られた2代藩主前田利長の大きな墓所も一見の価値がある。
雪の降る中、瑞龍寺前でチャーターしたバスを降りる。総門が迎えてくれた。その向こうに山門がのぞいている。
門をくぐるとき、建物に入るときは必ず屋根からの落雪に注意しながらの見学だった。
総門から山門を見る。
山門の扉を受ける右側の木は木目を見て外側に反るおそれがあると判断したのかギザギザの材(専門用語でこれ何て言ったっけ?カタカナの感じは浮かぶのだが思い出せない!)で予め柱とつなげて引っ張っている。その部分を上野教授が指して教えてくれた。
山門から見た仏殿。山上善右衛門嘉廣の最高傑作。屋根は鉛瓦葺きである。
仏殿内部の天井。全て欅材である。
なんとも異国情緒豊かな達磨である。
各建物の柱の下2mの地中に大きな石が埋められているのが発見され建物や伽藍の配置がわかった。また、江戸時代の詳しい資料や他の建物に転用されていた部材も次々と見つかったので復元が可能になった。
個々の建物の迫力ある造形、その大きさと配置が回廊で囲まれた庭と心地よいバランスを保っている。
何度でも訪れてみたい寺だ。
ところが初日に富山行きの航空便が降雪のため欠航となってしまい、急遽東京駅から新幹線で越後湯沢へ行き、北越急行(通称ほくほく線)経由の特急で富山へ向った。そのため富山へ着いたのはは予定より5時間遅れの午後2時40分だった。
そこで五箇山行きは翌日とし、瑞龍寺だけを訪れることになった。職藝学院の上野幸夫教授が案内をしてくれたが、上野氏は10年に及ぶ瑞龍寺修復及び復元工事に携わった方である。
まずは伽藍配置をご覧いただきたい。
(研修旅行の資料「万華鏡」から拝借したため一部に裏の文字が写っています)
手前から総門、山門、仏殿、法堂と一直線に並び、山門と仏殿との間の左右に禅堂と大庫裏がある。実は総門と山門の間の左右には七間浄頭(じんずう=便所)と浴室があったことがわかっているので近く復元されることになっている。山門から左右に延びた回廊の両端にそれらにつながる部分が切妻となって見えている。
仏殿の屋根だけが白っぽく見えるのは、この建物が瓦葺きではなく、瓦の形をした鉛で葺いてあるからだ。これは雪でずり落ちないように配慮されたとのことである。
三代藩主、前田利常が大工頭山上善右衛門嘉廣に造らせ1663年に完成したが、1746年の浴室からの出火で回廊でつながっていた山門、七間浄頭、禅堂、鐘楼が焼失した。山門以外はただちに再建され、山門も70年後の1820年に24代山上善右衛門吉順の手で再建された。
しかし明治の廃藩置県や廃仏毀釈で荒廃し、戦後の農地解放などで寺地も農地となって縮小されてしまった。それでも仏殿は明治42年に、総門と法堂は昭和3年に旧国宝に指定されていた。
昭和60年(1985年)に文化庁、県、市などによる7億円と5年の予定での解体修理工事が始まったが、工事が進むにつれて次々と大きな発見が続き、ついに創建時の姿が判明した。そこで全伽藍を復元することになり、23億円と10年の歳月をかけて上野教授のもとで平成7年(1995年)に今の形まで復元された。
私は平成15年(2003年)の9月に訪れて個々の建物の完成度の高さと配置のバランスの良さに驚かされた。正直に言えば奈良や京都の数多くの神社仏閣をも凌いでおり、世界的にも高い評価が与えられてもよい伽藍だと思っている。
また、この寺と長さ872mの八丁道でつながっている、やはり利常によって造られた2代藩主前田利長の大きな墓所も一見の価値がある。
雪の降る中、瑞龍寺前でチャーターしたバスを降りる。総門が迎えてくれた。その向こうに山門がのぞいている。
門をくぐるとき、建物に入るときは必ず屋根からの落雪に注意しながらの見学だった。
総門から山門を見る。
山門の扉を受ける右側の木は木目を見て外側に反るおそれがあると判断したのかギザギザの材(専門用語でこれ何て言ったっけ?カタカナの感じは浮かぶのだが思い出せない!)で予め柱とつなげて引っ張っている。その部分を上野教授が指して教えてくれた。
山門から見た仏殿。山上善右衛門嘉廣の最高傑作。屋根は鉛瓦葺きである。
仏殿内部の天井。全て欅材である。
なんとも異国情緒豊かな達磨である。
各建物の柱の下2mの地中に大きな石が埋められているのが発見され建物や伽藍の配置がわかった。また、江戸時代の詳しい資料や他の建物に転用されていた部材も次々と見つかったので復元が可能になった。
個々の建物の迫力ある造形、その大きさと配置が回廊で囲まれた庭と心地よいバランスを保っている。
何度でも訪れてみたい寺だ。
by wakakenn
| 2008-02-20 11:49